原崎夏 初エッセイ集『生きてるだけでどんくさい』

タイヤにチェーンをつけたいだけ、

ホットケーキを焼きたいだけ、

美容院で髪を切ってもらいたいだけ……

したいことはただそれだけ。

なのにどうにもこうにもどんくさくて……。

 

ゆるっと楽しいエッセイ15篇収録!

 

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 どうしてこうも自分は何もかもどんくさいのだろう。

 

 明日は大雪が降ると天気予報が騒いだ夜。

 これでは翌日会社に行けなくなってしまうと思い、タイヤチェーンを買いに行った。

 重たいチェーンのケースを引きずって、刺すように冷たい風が吹く駐車場で取り付けの練習をする。

 軍手を付けても震える手で、パズルを組み立てるようにチェーンをタイヤに巻き付けた。

 一個のタイヤに取り付けるのに何十分もかかり、「大丈夫、これで明日雪が降ってもちゃんと付けられるから」と自分に言い聞かせた。

 本当は何も大丈夫ではないことはわかっていた。

 明日になれば、きっともうチェーンの付け方を忘れている。

 早く出勤しなければと思えば思うほど、手が絡まって動かなくなる。

 自他ともに認めるどんくさい私の運転技術では、チェーンを付けたって雪道が危ないのは変わらない。

 大丈夫な要素など何一つ無かった。

 それだけはわかっていたけれど、自分で「大丈夫」と言い聞かせるしか無かった。

 もう練習はこれくらいにして帰ろう、とチェーンを取り外す。

 すると今度は、そのチェーンが二度とケースに入らなくなった。

 本当にもうどうやっても入らなかった。

 このケースに入っていたのだから理論上は入るはずなのだが、上から無理矢理乗っても閉まらない。

 というか、最初どうやって入っていたかも思い出せない。

 信じられないくらい寒い風が吹く駐車場で、ついにメソメソ泣き出した私は全てを諦めて蓋の閉まらないチェーンのケースを車のトランクに放り込んだ。

 空を見上げれば煌々と光る月が浮かんでいる。 

 実家を離れ、一人ぼっちで三重県の津市に来て早数年。

 この土地で見る月は、都会と違ってやけに明るい。

 いつもは大好きなその光が何故かその日は辛く感じた。

 

 違うんだ。

 もっと、ちゃんと器用に生きられるはずなんだ。

 みんなはこんな風に生きていない。

 もっと上手に、簡単に、丁寧に生きる方法があるはずだ。

 ちゃんとチェーンをケースにしまう事ができて、料理も掃除もいろんな事がちゃんと出来る生き方があるはずなんだ。

 

 子どもの頃から「もう死んでしまいたいなぁ」とよく思っていた。

 当時住んでいた社宅の五階のベランダから下を覗き込み、ぼんやりと芝生の地面を見ながら、果たして人間はこの高さから落ちたらちゃんとあの世に行けるだろうかと考えたものだ。

 しかし実行することは無かった。

 恥ずかしい話、高所恐怖症だったので五階の高さから下を見るだけで精一杯なのだ。

 結局、私は他の死に方も知らず死ぬ勇気も無かった。

 そんな私は生きるために図書館で大好きな漫画をいくつも予約していた。

 別にそんな些細な事が自分の命を救ってくれると本気で思っていたわけじゃない。

 図書館の漫画の予約なんて、いつだってキャンセルできた。

 私がこの世からいなくなったって、ちゃんと次の予約を待つ人に届いた。

 それでも、「でも、漫画予約してあるし。取りに行かなきゃ図書館の人が困るじゃん」というたったそれだけの考えが、私の心をこの世に引き止めるたった一本の小さな釘のようなものだったのだ。

 運動や勉強、人付き合いの下手な私に、クラスメイトも先生も冷たい目を向けた。

「お前みたいなやつ、何で生きてるの?」といつか誰かにそう言われるんじゃないかと思っていた。

 だけど、そんな居もしない誰かに向かって「でも、ほら、本が来るんだもん。予約しちゃったんだからしょうがないじゃん」と言い返す理由が欲しかった。

 

「きっと生きていればいいことがある」「家族を泣かせちゃ駄目だ」「私はいつか夢を叶えるまで死ぬわけにはいかない」

 

 そんな、立派な輝かしい理由を心の中心に杭のように刺して、支えにするのが怖い。

 生きる理由が大きく強固な支えになればなるほど、その大きな杭がある日ポッキリ折れてしまった時に自分の心をこの世に留めておくことができなくなる気がした。

 掴んで、縋っていた支えを失って、あの五階から真っ逆さまに落ちていく気がして怖くて仕方がなかったのだ。

 

 子どもだった私はたくさん本を借りた。

 毎週図書館に行って、予約した漫画を借りて、また予約できる数の上限まで予約する。

 家に帰って大好きな本を、漫画を広げひたすら読み漁った。

 

「ああ、早く次の本が来ないかなぁ」

 

 読み終わった本を抱きしめて、自分を宥めるようにそう言った。

 そう思えることが、たった一本、私を立ち止まらせてくれた釘だ。

 高くて怖い五階のベランダに向かう私の服の袖を引っ掛けて「ああ、もう、袖口ほつれちゃったよ」と困らせて、ベランダから背を向ける言い訳を作ってくれるような、そんな小さな細い釘。

 

 そうやって幼い私は言い訳を繋げて、本を抱きしめながら生きてきた。

 美術部に入って新しい友達ができた。

 絵を描くのが楽しかった。

 やってみたい学部を目指した。

 本に出てきた場所に憧れ、初めて一人で観光に行った。

 

 いつだって何かが釘となり、私をちゃんと引っ張ってくれる。

 引っ張ってくれる、とまだ信じている。

 引っ張ってくれるものがこの世にはまだある、と思っていられる。

 

 小さかろうと、細かろうと、言い訳じみた理由だろうと構わない。

 新しい釘を打ち込むのだ。

 タイヤチェーン如きに人生を阻まれてたまるか。

 

 そう決めた私は後日、生まれて初めて鰻屋に行った。

 美味しい高級鰻を食べるのだ。

 そしてこれを期に、鰻屋巡りに目覚めて毎月のご褒美にしてそれを楽しみに仕事も頑張って素敵に生きるのだ。

 津には美味しい鰻屋が多いらしい。

 以前、知り合いに「ここら辺に住む人はみんな、それぞれにお気に入りの鰻屋さんがあるんだ」と教えてもらった。

 私もお気に入りの鰻屋を見つけて、津市民の仲間入りを果たしてみせようじゃないか。

 

 高級そうな鰻屋ののれんを潜り、緊張しながら席に座ってメニューを開く。

 特上の鰻丼は高すぎて手が出せないけれど、特別な鰻屋巡りの第一歩なのだからちょっと良い鰻丼を注文してやるぞ。

 運ばれてきた鰻丼は輝いて見えた。

 私は自分で働いたお金で鰻を食べられるような人間に成長したのだ。

 もう本を抱きしめて涙をこらえていた子どもじゃない。

 私はきっとまだ頑張れる。

 

 美味しそうな濃いタレでツヤツヤ輝く鰻丼の横に、小皿に乗せられたレモンがあった。

 鰻にレモンが合うとは知らなかった。

 世の中知らないことだらけだ。こんな通な食べ方があるなんてちょっとドキドキしてしまう。

 私はちょっと背筋を伸ばし、穏やかに店員さんに尋ねた。

 

「すみません、こちらのレモンはいつ鰻にかけたらいいんでしょうか?」

「そちらはデザートのグレープフルーツです」

 

 私は生きてるだけでどんくさいが、人生に絶望はしていない。

 だけれども、それはまぁ、そうなんだけれど。

 

 本当に?

 

 本当に本当に本当に、私ってちゃんと生きていけるのか?

 

 

 

 

著者プロフィール

原崎夏 

文章を書くのが三度の飯の次に好き。

発達障害があるが飲食店で働きつつ、それなりに楽しく生きている。